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インドの国紹介
インド(ヒンディー語: भारत、英語: India)[注 2]またはインド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India)[注 3]は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はニューデリーまたはデリー、最大都市はムンバイ。
西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。
海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、アンダマン諸島がインドネシアに近接している。
インド本土は、インド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。
1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。
インドの経済状況
インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる(詳細)。1997年5月に政府は低品質の米の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまですべての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ・医薬品といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 – 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い経済成長率を達成している。
労働力に関しては、インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。
貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易がGDPに与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、国内総生産(GDP)に与える影響力が大きくなっている。おもな貿易品目は、輸出が石油製品、後述する農産物と海老、輸送機器、宝飾製品や医薬品、化学品、繊維などである。輸入は原油・石油製品、金、機械製品などである。
IMFによると、2013年のインドのGDPは1兆8,706億ドル(約190兆円)であり、世界第10位である。しかし人口が莫大なため、1人当たりのGDPは1,504ドルと世界水準の20パーセントにも及ばず、インド洋を隔てて南東に位置するスリランカと比べると半分ほどに留まっている。2012年にはGDP購買力平価PPPベースで、日本を抜いて世界3位になった。
2030年代には15億人を超え、中国を抜き世界一の人口となる見込みであるが、2050年には16.6億人になると予想されている。
民族・言語・宗教
民族
インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。
大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。
Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。
ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。
言語
インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。
インドでもっとも多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40パーセントを占める。
方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。
植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。
しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。
1991年の国勢調査によると、17万8,598人(調査対象者の0.021パーセント)が英語を母語にしており、9,000万人以上(同11パーセント)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。
インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。
インドの大学ではすべて英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。
インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。
ただし地名に関しては英語離れとでもいうべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。
こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語はいまだ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語はおもに南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。このように北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりとともに、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。
もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなったあとも、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身につけられてきたという経緯がある。
しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティなどを除けば)日常語として話している人はほとんどおらず、またその複雑さゆえに同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
インドの宗教
ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目である。ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 – 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 – 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制などを特徴とする宗教である。ジャイナ教
ジャイナ教とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀 – 前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろし、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。仏教
仏教発祥の地であるが、信仰者はごくわずかである。
1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。
一説では、東南アジア・東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したためとされる。
1956年、インド憲法の起草者の1人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民とともに仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。
- チベット仏教
ラダック連邦直轄領、ヒマーチャル・プラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。
シク教
16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒たちはグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1,430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。
イスラム教
イスラム教徒もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第2位の勢力である。インドネシア、パキスタンについで、インドは世界第3位の信徒人口を擁するイスラム教国である。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。
キリスト教
詳細は「トマス派」および「インドのキリスト教」を参照
インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは20世紀に北インド(合同)教会(Church of North India)、南インド(合同)教会などが起こった。
ゾロアスター教
サーサーン朝の滅亡を機にイスラム化が進んだイランでは、ゾロアスター教徒の中にはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーンから、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーンにたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。彼らはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。
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